昭和41年10月31日 夜の御理解
先日から、久富先生ところの長男の結婚式が、ここでございました。私が祭主を仕えまして、本当に有り難い結婚式でございました。久富先生がその事についていうておられますように、本当に久富の家には、もう勿体ないもう分に過ぎた嫁御でございますと、本当にまぁどこをどういう風に思いましても、成る程私が聞いても、本当にちょっとあんたげにゃ良すぎるごたるのち言うごたる、そのまぁ嫁御でございます。
又こんな事を言うちゃ可笑しいですけれども、もう持ってくる物でもそれこそあちらの家には入りきらん位に、所謂まぁ沢山持ってきておられる。人物もしっかりしておられるですし、本当に久富先生が仰るように、本当にまぁああ言う状態の中に、ようこんなおかげが受けられたと言うような、その自分位の所にこんなその嫁をよう貰えてというて、御礼のお届けをなさっておられますけれども。私もそれを思うですね。
今日結婚式の記念写真が、ここで撮っておりましたが出来て参りました。それで二枚がここにお供えを頂いたんですけれども。それを見せて頂いてから、今更のようにその事を思うんです。おかげを受けたなぁ、おかげを受けておるなぁと言う事を。それで私その事を神様に御礼申させて頂よりましたら、頂く事で御座います。だからその事を皆さんに聞いて頂こうと思うんです。
これはある教会の、大変お徳を受けられた先生がおられました。その息子さんの教会が矢っ張り、同じ市内にございます。所が非常にもうそれこそ大変なお徳をうけられ、大変な人が助かった教会ですけれども、息子さんの所の教会はいっこう、そのお父さんがおられた時には、どうやらこうやらだったけれども、その後においてその御比礼が地に落ちてしまってまぁ人が助からん。信者ももうごく少なくなってしまった。私そこん所の教会の事を、ある事でお取次させて頂いた事があるんです。
そしたらですね神様から、あのお芝居に「二十四孝」というのがございますね。二十四孝というて竹の子堀のあるお芝居です。あの事を頂くんです。これはね、親が寒中に竹の子を食べたいと言うわけです。今頃は缶詰やらあるけん問題じゃないですけれどもね昔の事ですから。この寒中に竹の子のある筈ないと言うわけです。けれどもその親がたって食べたいというのであるから、ひとつ掘らせてもらおうかというて、裏のその竹の屋根に入りましてから、雪をかき分けてその竹の子を掘るお芝居があります。
所がです確かにその掘った。勿論竹の子のあろう筈はなかったんですけれども、そこには自分が永年探し求めておったその刀がいかっておったというのです。こげな寒かつこげな雪の日に、どうして竹の子があるかと。もう親でもそげんあんまり無茶なこつは言うなというて、その聞かなかったらそれまでのこと。けれどもまぁ親がそう言うのだからと、素直にそこん所を頂いてです。
それこそこの寒中に竹の子のあろう道理はないけれども、親が欲しいというのであるから、まぁ親に孝行と思うて掘らして頂いた。所がそこから竹の子じゃなくて、その詮議し探し求めておる所の、自分が今一番必要とする所の刀が出てきたと、こういうのである。私は思うんですね例えば、その教会の場合でもです。確かにお父さんが残された徳と言うのがあるんです。
けれどもそれはねこう置いたものを取るように露出しているのではないと言う事。親の言われておった事を素直に聞かしてもろうて、それを私は堀起こす修行それを掘り下げる修行。そこから私はおかげが頂けれる。どんなに掘っても掘ってもです。何もない所もありましょう。それは徳のない家なんです。けれども徳を確かに先代が残しておられる。信心して残しておけれるのは、御神徳であり又持って行かれるのも御神徳だと、教祖の神様が仰るように確かに。
確かに御神徳を残してあるんだけれども、それは上に出ておるのじゃない。矢張りその徳を頂くためには、受ける為には、そこを掘らなければ出てこないと言う事。堀りさえすりゃ出てくるのである。いくら掘っても出てこんとこもある。その点私はお徳を残してあると言う事は、有り難い事だと。けれどもその息子がですたい、それを掘ろうとしなかったら、どんな素晴らしい徳でも受けることが出来ない。
私は久富先生ところの、その今度の信一郎さんの結婚式で思う、この写真を見てから今更に思うんです。本当にお父さんの信心によって、これだけの事が出来たとこう思う事なんです。久富の家には、もったいない様な嫁御を貰うたと言う事。沢山の道具をもって来てくれたと。こちらは何にも出来んのに、それこそ家に入らんほどの立派なものを持って来てくれたとこう言う。
しかも嫁御は素直で本当にまぁよさそうだと、まだ分かりませんけれども。おかげを受け取るんですから、もう良いに違いはない。けれどもこれからのおかげというものはです、もう親の徳じゃいかん。子供自身がその気になって受けていかなければ、そのおかげをおかげとしてそだっていかなければならんと言うせきにんと言うものは、子供そのものにあるんだと言う事。
どんなにお徳の高い先生の教会であっても、矢張りそのお徳を受けよう、おかげを受けようと思えば、矢張りその先生の信心の内容にぶっつかっていかなければならん。又それを頂く為の信心。所謂受けるだけの修行というものがなされなければならん。どんなに徳の高い先生の所であっても、誰でも彼でも一様におかげを下さると言う事じゃない。お徳はあるあるのだから、ぶっつかりさえすりゃ、何かが頂けれるのだ。
本気で修行さしてもらや、そのお徳をもってござる先生の所であるならば、おかげを頂けれるのだ。そこん所に私はそのただ、お徳というものがです、こちらがその気になって、それを頂こうという気にならなければ、頂けんものだと言う事を感じます。親の徳で本当にもったいないような結婚式が出来た。おかげでここまではおかげを受けた。これからはおかげをおかげとして行く為にです、おかげたらしめるための信心は、息子達これから夫婦なら夫婦の信心による事だと言う事なんです。
段々徳を受けた先生がござるというても、そこに行きさえすりゃおかげ頂くと言う事じゃない。矢張りその信心を矢っ張り掘り下げなければ素直に。例えば先生がです、寒中に竹の子食べたいと言われるなら、先生こげなああた寒中に竹の子がありますもんかい、と言った様な物じゃなくてです。先生がああ仰るからというて、それを素直に聞いて行く信心からしか、私は自分の愈々求めておるおかげというものは頂けんものだと言う様な事を感じましたですね。
どうぞ。